2013年8月16日金曜日

言葉にしたらなにかが変わってしまう

昨日は終戦記念日でしたね。68年前、玉音放送のあった正午丁度から、チャリティ演奏をさせていただきました。

わたしは戦争を全く知らないし、復興と混乱にただ進むしかなかった日本の情勢や世界的立場なども歴史として知っているだけでよくはわかりません。そして、今と昔、あるいは他国と自国においてどちらが良いのかなどはもっとわかりません。そしてそれを比べるために勉強したいとも思いません。勉強したところでわたしは多分、なにも動かないだろうとわかっているからです。ただ不満を口にしてなにもしないだけだろうから、たとえば事実を知って憂うことになるなら、それは悲しかったり辛かったりする思いを自分の中に増やすだけのような気がして嫌なのです。

ただ、どんな時代のどんな国に生まれていたとしてもきっと確かに思うことら、わたしの大切な人たちが悲しいことのために涙を流さないようにということです。一番怖いのは、わたしのために誰かが涙を流すことだと最近思うのです。誰かを失うことでわたしが悲しく思うより、それは余程怖くて悲しくていたたまれないのです。誰かに惜しまれるような出来た人間ではないから、ただどこかでこっそり生きさせてもらえればいいなんてそんなこと思ったりもすれば、うんと愛されていたいと思いもするめちゃくちゃなものだから、だからどうか、わたしの大事なひとたちを手を握って送り出してあげられるように、そんな世界であればいいのです。


マザーテレサの空っぽな体の中には、彼女が握った手の、無数のひとびとのあたたかさが詰まっていたのでしょうか。そのあたたかさが彼女のいのちの火であるように、本当はそうではなく彼女には彼女の火が小さく燃えていたのに、外から見るわたしたちにはその火はあんまり奥ゆかしく燃えていたので気がつかなかったのでしょうか。それとも、彼女の火はいつしかもう燃えることをやめて、降り積もるひとびとの火に飲み込まれ一体となったのでしょうか。

もしわたしの大事なひとが彼女のような生き方をしていたら、わたしはきっと泣いてしまうでしょう。やめてくださいとお願いしてしまうでしょう。自分のために生きてくださいと言ってしまうでしょう。

世界には信じられないほど強い方がいらっしゃいます。慈しみを強さにする方、ひたむきな探求を強さにする方、言葉を強さにする方、肉体を強さにする方、そしてひとはみんな、愛によってもっと強くなるのでしょう。


わたしは音楽でなにができるのでしょう。音楽はなぜひとの生活に必要なのでしょう。詩はなぜこころを打つのでしょう。声はなぜこんなに染み渡り、ぬくみは安心を与えてくれるのでしょう。

そんなことをふと、またはぼんやりと、とりとめもなく考えてしまうのでした。

動画は先日のチャリティ演奏より、さとうきび畑。



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