2013年7月8日月曜日

交差する線aと線p上に

時々、頭の中に細切れにある文字や言葉をぽつぽつと反芻してぼんやりすることがあります。そんな時は長たらしい文面がどうも作れなくて、それは丁度、ブラームスのような長大なフレーズではなくアポリネールの或る詩のように、ぷつぷつと関連性のないようなあるような単語の列挙しか出来なくなるのです。そうでなければいかにも知ったかぶりをした、どこにでもあるようなだれでも考えているようなことをさも偉そうに言うことしか出来なくなるのです。

自分以外に献身的に接するということは果たして可能なのだろうかなどとよくよく考えます。たとえば大切なひとが病の床に伏したとして、おそらく大多数のひとは手厚く看護をするでしょう。その病の辛さを慮ると、自分が代わってやりたいと思うでしょう。わたしもそう思うわけですが、ただわたしの場合理由がふたつあって、ひとつは勿論、病の苦しみから大切なひとを解放してあげたいという思いですが、もうひとつは、大切なひとが苦しんでいるさまをみるのがあまりにも辛いので、いっそ自分が苦しんでいるほうが楽という思いなんですね。
大切なひとが苦しんでいる時、例えば熱にうかされている時、そばにいて氷枕を当ててやることは出来ます。冷たいタオルで火照った身体を冷やし、また寒い時は布団をかけて湯たんぽを作り、葛湯を飲ませることができます。でもその熱が治らないものだとしたら、終わりのない看病、よくならない病状、手厚い看護はやがて当たり前になり、看護への感謝は段々と薄れていきます。意のままに動けない自分への絶望で我儘になっていく病人と、何故治らないのだという看護側の苛立ちや悲しみが互いに膨らんで、そうして時々、ニュースで取り上げられるようなとても辛い結果を招くことがあるのでしょう。

つまり、完全に病を取り除いてやることが出来ない場合(それに限らないかもしれませんが)、半永久的に苦しみながら生きるそのひとを、何も出来ずに見守っていなければならない辛さを考えるとわたしはいっそ病人側になったほうが楽だと考えてしまうのです。でもつまりそれは見守る辛さを誰かに代わってもらうということになるわけで、それは随分と身勝手な考えなのではないかとも思うのです。

ちょっとした風邪で寝込んだ時、両親が本当に献身的にわたしに尽くし、守ってくれるのをベッドからみていると本当に申し訳なく、しかしとても有難く幸せに感じます。そんな時などは体がいくら辛かろうが心は平穏で、早く治そうなどと考えながら横になったりするのですが、これが看護側になるともう常に不安と言いますか、いまはどんな調子なのかとか、急変していたらどうしようだとか、いつ良くなるのかだとか、看護がなおざりになって病人につい粗雑に当たってしまわないかとか、心が疲れることが多いように思います。

結局のところ何が言いたいのかと言いますと、健康でいられるというのは本当に本当に幸せで有難いことなのだなあと言うことです。日々の感謝をよくよく忘れてしまう駄目なわたしですが、それでも思い出した時にありがとうと神様や自然に伝えていきたいと思うのでした。


余談ですが富山でのリサイタル終了致しました。気にかけてくださっていた方々、またお聞きくださいました方々、有難う御座いました。今回の演奏も勉強になったので、フィードバックをしながら今後に活かしていきたいと思います。


ああ、征矢さんの詩が読みたい。
星野沙織
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