2013年6月10日月曜日

クロツグミのくちばしに寄せて

今日は少しひんやりとした気候ですね。また少し間が空いてしまいました、すみません。

入梅が早かったというのに空梅雨で、農家の方は大変だとか。ヴァイオリンにとっては湿度が低いのは有難いことなのですが、食いしん坊としては作物が不作で野菜や果物の値段が高騰すると苦しいのでぜひとも雨が降ってほしいものです^^;


先日、出来上がったトリオのCDを持ってクルミドコーヒーさんへお邪魔して参りました。その折にふと店内にある本棚を覗いたらミヒャエル・エンデの「影の裁縫機」という本がおいてあったんです。

ミヒャエル・エンデというとわたしはサーカス物語とモモ、果てしない物語程度しか読んだ事がなくてその他の作品については全く知らないと言っても良いほどなのですが、それでもモモの中でエンデが伝えたかったことや、サーカス物語のト書きの書法などはとても印象に残っています。
久々に見たエンデの名前と、興味をそそられる装丁と題になんだかとてもそそられて帰宅してからこの本を検索してみたら、まあほかにも面白そうなエンデの作品がわさわさと><こ、これは図書館に行くか本屋に行くしかないのでしょうか・・・笑
しかし色々なエンデの作品をインターネットで閲覧していても既読のサーカス物語が気になってしまうのは、多分わたしがあれを読んだとき返却期日に追われてほぼ流し読みをしてしまったのが悔やまれているからなのだと思います。そういえば、指輪物語の一巻も流し読みに近かったっけ。あれは確か小学校の卒業式の前々日に借りて、その翌日に返さなければならなかった気がします。だからわたしの指輪物語はまだ始まってないといったところ。いつかまた冒険を始める気分になったら読み直そうと思っています。


昔からそうだったのかはわかりませんが、およそわたしは退廃的な考え方をすることが多いのでしばしば泥沼にはまることがあります。エンデの言うところの「憂いの沼」にどっぷりと浸かって、足をあげる気もないままに自ら肩まですっぽり埋まってしまうのです。

大学時分の頃、夢や理想や、若い人たちが往々にして語るようなきらきらした理想論、またはうわついた善意の意見を述べると「きれいごとを言うな」「ろくに考えもせずに偽善めいたことを」といった意味合いのことを知人からよく言われていました。その頃はそういった言葉に多少なりとも傷ついていましたが、気がついてみれば自分があちら側の思考にかなり傾いていて、それが様々なことを経験してきた成果なのか、または処世術を学ぶ上での弊害なのか、あるいはそのどちらでもなく私自身が生来持っていた気質が年とともににじみ出てきたのか、しかしそんなことはわりとどうでもよくて、つまり確かに言えるのは、いまの私がどういう思考に傾いていようが美しいものを美しいと感じる時とねたましいと感じるときがあるし、病むひとを慈しむ時とないがしろにしてしまう時があるし、枯れる花を哀れに思う時と汚らしいと思う時があるし、それら対極の気分というのは大なり小なりきっと誰もがもっているもので、だからわたしはわたしのまま、ゆらゆらしながらこれからも生きていくのだろうということでした。



ふとなにか、大きな大きな忘れ物をしているような気持ちに成る時があります。そうなるとなんだかむねがざわついてしまって、いても立ってもいられなくなって、声をあげたくて、なにかにすがりたくなってしまうのです。そんな時は大丈夫、大丈夫と自分に言いながら思い出すようにしています。綺麗だよと言われて急いで見上げた月のことや、夜に降った雪の柔らかさ、酔いながらみんなで弾いたベートーヴェンの7番のシンフォニー、好きだった地球誕生の絵本、風の又三郎のビデオ、放送室のマイク、足しげく通った理科準備室、テレビから流れる第九、砂まみれになったスイカ、夜な夜な行われたトランプ大会、下妻物語、夜中の電話、両親や大事なひとたちの笑顔や声や、あたたかさやしぐさやくせ、そんなものをひとつひとつ思い出していると、なにも忘れ物なんてしていないということを思い出せるのです。


でも、いつかたくさんのたからものを持ちすぎているせいで、何百回目かにはまった憂いの沼からとうとう這い上がれなくなってしまうのではないかと不安になったりもするのでした。石をおなかいっぱいにつめられた狼みたいに!

星野沙織



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