2013年5月11日土曜日

愛とはなんなのでしょう

ふとそんなことを考えた時がありまして、高校時分に理科の先生に聞いたことがありました。

「先生、愛ってなんですか?友情と何が違うのでしょうか」

「もし相手が車に轢かれそうになった時、思わず体が固まってしまうのが友情、思わず助けに動いてしまうのが愛」

友情でも動く時は動くし、愛があっても固まることはあるでしょう、極論だと今では思いますが、その当時は成る程と思ったものです。

でももし、わたしが愛をもって接するひとがわたしのかわりに命に関わるような目に遭うのだとしたら、それはとても辛くて悲しいですが、つまりはそういことで、相手もそのように思っているからこそかわりになりたいと思うのでしょう。


他人のためにそこまで思えるようになるって、愛情ってなんて不思議なんでしょう。神様はなんとも、とてつもなく力のあるものを人間にお与えになりましたね。大きすぎてわたしには扱えないくらいです。

人間同士の愛もそうですが、こと神の愛は無償といいます。その事を話題にする時、わたしはいつも「大きな木」という絵本を思い出します。シェル・シルヴァスタインという方の絵本なのですが、最近村上春樹さんが翻訳されたそうですね。わたしはそちらは拝読していませんが、あのお話はとてもとても素敵な本です。大人になって思い返した方が尚更心に響きます。

絵本というものがわたしは昔から好きで、そのシンプルな文体と切り取られた部分部分の場面の絵、大人も子供も楽しめて、夢があってきらきらしていて教訓にもなってるなんて、なんてたくさんのものが詰め込まれているんだろうとどきどきします。今でも本屋さんの前を通ると、絵本のコーナーに立ち止まって見てしまうこともしばしば^^;

絵本には、登場人物ひとりひとりの詳細な心理描写などはありません。場所もどこだかわかりません。時代だってあやふやなことも多く、そんなこと起こるはずがないということも平気で起こります。でも、それが絵本では「当たり前」なんです。存在しない世界も当たり前、存在しない世界へ行くためにくぐり抜けなければならない3つの試練だって、それを成し遂げるために必要な桃色女王バチの蜂蜜も、リュウグウノツカイの涙も、大きなルビィと小さなイエローサファイヤが散りばめられた銀のつるぎも、そしてそれを成し得た時、王女様と結婚出来るのも当たり前。
人食い龍は魔法の葦笛を聞くと踊り出して青年は財宝を手に入れられるし、南国の果ての果てに咲いている花の雌しべから作った金色の団子を食べると、年老いて病にふせていた長老は途端に元気になります。動物は人語を解し、草木花々はまだわたしたちのそばにたくさんたくさん咲いています。泉は湧き、道はうねり、ひとは夜に怯え、昼に歌を歌います。
もちろん、宮沢賢治さんの作品のように現実と夢が絡まり合ったようなものもあります。そういったものもまたとても好き。宮沢賢治さんの作品は本当に素晴らしいですね。こちらもやはり大人になってからのほうが胸に響きました。特にグスコーブドリとよだかの星は好きな話。もう一度銀河鉄道は読み返しておきたいのですがまだ時間が作れていません。なめとこ山の熊も妙に恐ろしげというか不思議というか、印象に残っています。


小学校の同級生に画家のお父様をもつ子がいまして、そのお父様が描いた注文の多い料理店と絵姿女房の絵本をいただいたことがありました。切り絵のような油絵のような、フラスコ画のようなデジタル画のような、フランス的な雰囲気もあれば、ドイツ的でもあり、なんだか不思議な魅力のある絵で、いまでもよく覚えています。


幼少期に読んだ絵本ってよくよく覚えているものが多くて、その絵本に久しぶりにひょんなところで出会ったりすると本当に嬉しくなったりします。なんだか、時を超えてサプライズプレゼントされた気分ですよね。

わたしがもし子をもつようになったら、どんな絵本を読み聞かせてあげよう。母や父がしてくれたように、たくさんたくさん読み聞かせて、いつかわたしが体験したサプライズプレゼントを受け取れるようにしてあげたいと思うのです。
星野沙織

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